お経とは、仏教徒の為の教えが説かれた経典の事。例えば、キリスト教には聖書、イスラム教にはコーランがあるように、仏教にも釈迦の教えを説いた聖なる経典があります。
お経はインドの言葉、サンスクロット語やパーリ語等で書かれました。日本に伝えられた経典は、中国を経由した為、漢訳経典です。また、八万四千の法門といわれ、数多くの種類があり、正確な数は不明です。
般若心教は、西遊記のモデルで有名な中国の僧玄奘三蔵が、インドから中国に持ち帰った全600巻からなる経典「大般若経」の中から、262文字にまとめられたお経。般若とは、仏の智慧という意味。「空」の思想という大乗仏教の神髄を説いた経典です。
法華経は、正しくは妙法蓮華経といい、鳩摩羅什という人が訳したもので、八巻二十八品からなっています。人々が永遠に救われることが説かれています。
お経を読むことで、諸仏の教えに接し、救い、導きを得ることができます。また、亡き人の魂を供養し、遺された人の心を慰めます。お経を読むときは、自らの身を整え、心を鎮めて一つひとつの文字が仏の姿であり、声であり、心であり、ありがたい仏の教えであることを念じながら読みましょう。
合掌とは、両手を胸の前で合わせ相手に対し敬意を払う礼法です。インドでは右手は聖なる手、左手は不浄なる手と考えられていて、両手を合わせるのには、人間は聖なる面と不浄なる面を合わせた存在であるということを意味しています。
檀家とは、仏教を信仰し、帰依する寺院(菩提寺)を護持する家という意味です。
公家や武家が特定の菩提寺をもったことに始まり、近世初めに民衆の世帯が家として成立してくるようになると、菩提寺と檀家とが固定するようになってきました。この状況をふまえて、江戸時代にキリシタン禁制を強化するために全国で寺請制度が施行されます。また、寺請制度は一般民衆を特定の寺院に強制的に所属させて戸籍登録を行わせるものでしたが、やがてその基礎単位となる世帯のことを「檀家」と呼ぶようになりました。
ご法事の際にお供えする卒塔婆は、故人への供養の証です。故人の成仏を願うため、また報恩感謝を表すためにも、参列者の皆様で卒塔婆を建立しましょう。
卒塔婆は、法事の数日前までに名前をお寺にお知らせしましょう。
お墓参りに特別な作法はありません。大切なのはご先祖様への報恩感謝の気持ちを込めてお参りをすることです。最近では、お墓参りの代行を頼まれる方々がいますが、お墓参りは故人と私たちの結びつきを再確認する大切な行いです。お参りが終われば、お供えの食べ物や飲み物は持ち帰るよう心掛けましょう。借りた用具はきちんと戻し、ひとこと挨拶をして帰るくらいの心配りは忘れないようにしたいものです。
供養とは、もともと敬意をもっておもてなしをするという意味で、仏・法・僧の三宝(さんぼう)に食事や衣服などの物資をささげて僧団を援助することをいいましたが、時代が下るともに、仏前に香・花・燈明やお供物などをお供えすることを供養と呼ぶようになりました。特に日本では、亡者の冥福をお祈りするためにお供物や塔婆を奉げる追善供養が中心になったので、仏様だけでなく、ご先祖様を供養の対象にするのが一般的になりました。また、法事とは法要ともいいますが、厳密に区別すると、法要とはお寺さんにお経をあげてもらうことをいい、法事とは法要と後の食事を含めたものです。いずれにしても仏様やご先祖様を供養する場のことです。広くは仏事全般を指しますが、日常的には初七日から百回忌までの年忌法要を意味します。
「追善」とは、先に亡くなった親・兄弟・先祖の御霊のために、生きている者が追って善行を積み、その冥福を祈ることをいいます。具体的には、仏壇やお墓へお参りすることはもとより、亡者の年忌などに法事を営んで供養するので、「追善供養」というわけです。
戒名というと、人が亡くなってから授かるものと思われている方が多いと思いますが、本来はそうではありません。仏教に帰依し、仏様の弟子として、その教えにしたがって戒を守る誓いをたてた者に与えられる名前が戒名です。
仏教を知り
豊かな生活を…
仏教豆知識
私たちが日常使っている言葉の中には、昔仏教の専門語だったものが数多くあります。それぞれの言葉の起こりを調べてみると、日本語がどれほど深く仏教と関わりあっているかがわかってきます。
庶民の出入り口を玄関と言うようになったのは、江戸時代からで、もとは禅の世界の言葉で仏教の道へ入る事。
一般には、料理を出す店や家の中で食事する部屋。仏教では、「じきどう」と読み、寺院の中で僧侶たちが食事をするお堂の事です。修行道場の食堂(じきどう)は食事の時も修行が続けられる場所で、作法は厳しい。
大きな事件や出来事が起きた時に使われますが、お釈迦様が一大事因縁をもってこの世に出現したという「法華教」の一節で、自分が悟った真理を説き、理解させることを意味しています。
本業以外の事や悪い遊びに熱中することのように、良いイメージでは使われないが、仏教用語では悟りの楽しみ・仏の道を求める楽しみという意味。
「ありがとう」は感謝やお礼を表す日常語で、三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」とあり、人間として生まれた事や仏の教えに遭う事の有り難さを教えた言葉。
「うろうろする」とよく言いますが、意味はあてもなくあっちこっちに動き回ることです。「うろうろ」を漢字で書くと「有漏有漏」となり、「漏」とは「煩悩」、つまり「煩悩がある」という意味になります。長い人生、人はあれこれと迷い、決断できずに苦しむこともあると思います。そんな時でも自分の行くべき方向をしっかりと定め、うろうろせずに進んでいくことが大切だということでしょう。
病人に付き添って看病することですが、これも仏教からきた言葉です。病人を看護することは仏教では重要な行いだったそうです。ちなみにこの「看」という字は「手で触れて、目で見る」と書きます。また、医療が発達していなかった頃の治療は、手を病人の患部に当てて直していたそうです。治療のことを「手当て」と言うように人の手には強いパワーが秘められているのかもしれません。
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