歴史

 天長てんちょう3年(825)弘法大師空海こうぼうだいしくうかいが山形県の湯殿山ゆどのさんを開山の帰路、阿武隈川の弁天の渡しにさしかかった。日暮れ時、岩の上に座って月を眺めていると、水面に地蔵尊じぞうそんの金文字が見えた。不思議に思って近づいてみると、古い船板から発した光であった。大師は「船は多くの人を乗せて大海を渡る、この舟板で地蔵尊を作って末世衆生まっぽうしゅじょう苦海くかいを渡す法船ほうせんにせよ、との菩薩ぼさつのおぼしめし」と思い、本地阿弥陀如来ほんじあみだにょらい十八願じゅうはちがんをかたどり、高さ一尺八寸いっしゃくはっすん地蔵菩薩じぞうぼさつを三日三晩で彫りあげた。そして大木の洞に安置し、また法華経ほけきょうの一部を書き写して東南の方向の山頂に納め、立ち去った。

 その後、約25年たった仁寿にんじゅ元年(851)8月のこと、比叡山の僧、頓性坊円空上人が行脚してこの地を通りかかった時、地蔵尊じぞうそん霊験れいげんに触れ、堂を建立して経聚山地蔵院高木寺きょうしゅうざんじぞういんこうぼくじと名付けて開山上人かいざんしょうにんとなった。

 天台宗寺院定式てんだいしゅうじいんていしきに従い、山王権現さんのうごんげん日吉神社ひよしじんじゃ)と白山権現はくさんごんげん田中稲荷たなかいなり)もまつった。その後、兵乱のため廃寺となったこともあったが、寛文かんぶん2年(1662)に宥見法印ゆうけんほういんが再興した。その後、羽州羽黒山若王寺うしゅうはぐろさんにゃくおうじの末寺となり、地域の安全を守る為、愛宕将軍地蔵尊あたごしょうぐんじぞうそんを祀る愛宕堂あたごどうを建立した。

 高木寺は、明治33年(1900)に火災に遭い、解体する農家を譲り受けて仮寺として建て、大正、昭和の代に再建を図るも、残念ながら時代が厳しく目的を達せず、平成4年(1992)、檀家の願い頂点に達し、全員のご寄進により、本堂、位牌堂、会館、庫裡を一気に建立した。

高木寺再建の記

高木寺は、平成4年に再建致しました。本堂前にある、一隅いちぐうを照らす碑・再建碑に、再建の記が刻まれております。
経聚山地蔵院高木寺きょうしゅうざんじぞういんこうぼくじ仁寿にんじゅ元年(851)比叡山修行頓性坊圓空上人ひえいざんしょぎょうとんしょうぼうえんくうじょうにんの創建にして御本尊は開山縁起に天長てんちょう2年(825)弘法大師羽州布教うしゅうふきょうみきり当地にて瑞兆ずいちょうを得て刻現されし舟板地蔵菩薩なりと明記せらる明治三十三年(1900)本堂庫裡等ほんどうくりとう火災に遭遇し御本尊および縁起書祖霊えんぎしょそれいの助けありて難をまぬかれしが仮本堂老朽化はなはだしく天台宗理念たる照一隅しょういちぐう任全にんまったからず地域の深く憂慮ゆうりょするところなりき昭和六十二年(1987)比叡山開創一千二百年に当たりその慶讃けいさん記念としての一寺一願運動は高木寺再建の議を啓発鼓舞こみし住職檀信徒だんしんきょう一体となりて発心五年有余にわたる献身によりて幾多の艱難かんなんを克服し遂に初志貫徹しょしかんてつの日迎ふるを得たりここに落慶らくけいの大法要を厳修こんしゅうし謹んで山門および檀信徒一統に佛恩ふつおんあまねからんことを祈念す 平成四年(1992)

一隅を照らす碑
高木寺再建の碑

地域や家内安全を願う

榊原住職

榊原 昌寛

住職

あいさつ

高木寺住職 榊 原 昌 寛

 この度は天台宗高木寺の公式ウエブサイトへのご訪問、誠にありがとうございます。

 高木寺は、ご本尊を舟板地蔵尊とし、平安時代仁寿じんじゅ元年(851)に比叡山修行僧頓性坊圓空上人により開山しました。時代の流れの中で様々な苦境に置かれた時期もありましたが、歴代住職が法灯を守り、檀信徒だんしんとや地域の方々のお力添えにより、歴史を刻んできました。また、明治33年(1900)に本堂庫裏等が火災にあい、それ以降解体する農家宅を譲り受けて仮本堂としておりましたが、檀家皆様の多大なるご尽力により、平成4年(1992)に本堂・位牌堂・会館・庫裏を落慶らっけいし、高木寺は再建致しました。

 これからも、檀信徒や地域の方々が安心出来る寺、安らぐ事が出来る寺を目指し、高木寺の更なる維持興隆の為に、一隅を照らしていきたいと考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

合掌

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